顔面神経麻痺を考える3
 心理編         こんた治療院

 顔面神経麻痺を考えるをUPしてから、皆さんからの相談メールが連日の様に届きます。その中には、実は自分の子供、親や兄弟、友達や恋人を心配してどの様にケアしてゆくのか?どう接していったらよいのか?という本人以外の人の問い合わせも多いのです。
 そこで、私が顔面神経麻痺になった時の経験を生かして、お互いにどう接したらよいのかを考えてみました。今回も皆様のメールが私を後押ししていただいてます。感謝をしながら執筆しています。


 突然の発病

 私の発病も突然起こりました。病院に勤務していた当時の私は、自分の異変にすぐに気がつきました。私は左の頬あたりに重い痛みを感じました。その後私は、温かい診察室から病棟へ入院患者さんを治療に行く時に、温度差のある廊下へ出た時に左の頬と右の頬の感覚の違いに気づきました。私は「しまった!自分で顔面神経麻痺になる!!」とあせりを隠せませんでした。そこで同僚である神経内科医に相談すると、「こんた先生、いくらなんでも来るのが早すぎる」という内容の事を言われてしまったのを覚えています。それもそのはず、まだ充分に左の顔はその時には動いていたのですから。しかしここで解ったのは、発病開始時点では成す術がないって事でした。ここまでに要した時間は、私が気がついてから1時間の間です。
  自分の治療室にもどると、鏡をみつめては目をとじたり、口笛を吹いてみたりして顔のチェックをしました。あせる自分がそこにいたのをはっきりと記憶しています。結果は1時間前よりまぶたが重くなっているようで、丁度、歯科で麻酔をした時の様な感じでした。


 家に帰ると

 家に帰ると私は妻に、顔面神経麻痺になっていると話しました。妻は別段なんの変化もなく、どうなるの?という感じでした。まだ私の顔が完全に麻痺していないためです。心配はしていますが、具体的にどうしようか?という事は知識もない彼女には無理な話です。私は原因は数日しないとはっきりしないと言うと、夕食の用意してあるテーブルについた。
 ぼーっとしながら、つまり落胆しながら食事が始まった。食事がおいしくない。私は妻に食事の味見をしたのか?と尋ねた。妻は「いつもと同じだけど?」と、ふに落ちない様子。私は考え事している為かと思いつつ、妻には「ちゃんと味見しなさいよ!」と言ってしまった。食事が終わると、娘と一緒にテレビを見ていた時に、ハッと気がついた。そして妻に話したのです。


 顔面神経麻痺の進行

 確実にまだ神経麻痺は進行している。私は妻に、顔面神経麻痺は顔の表情筋だけの麻痺ではない事を話し始めた。私が食事が美味しくないと思ったのは、気のせいではない事を話し始めた。顔面神経は舌の前3分の2の味覚も担当している神経です。その為に、顔面神経麻痺を起こすと、味覚障害も起きてしまうのです。私は麻痺の進行を確信して、いささか明日になるのが不安でした。しかし、今考えるとこの時にちゃんと妻に「ごめんなさい、味は悪くないのにあんな事言って」と謝ったのか?はメモには書いてありません。この場をお借りして、妻に謝りたいと思います。
 冷静になってみると、この時に私はパニック状態の入口にいたのではと思います。自分の事ばかり考えて周りが見えない状況下にあったと思います。本来は専門家のあるべき姿ではないと、反省していますがこれが知識の無い人だったらと考えると、フォローアップは大変な事だと思いました。そしてこの事が<顔面神経麻痺を考える>を執筆しようと考えたきっかけになったのは事実です。

 さらなる麻痺の進行

 翌朝、私は顔を鏡で見ました。おでこにしわが寄りにくい事を確認して、まゆげの動きをみてみました。昨日より悪くなっています。目も閉じる力がない様でした。歯を磨くとやけに水が垂れるなと気がつくと、これも唇の動きが悪くなっている。日に日に悪くなってきています。
 数日後、左の顔半分が完全に麻痺してしまいました。妻が「昨日の夜、パパは目を開けて寝ていたけど、最初は起きているものだと思って話しかけたら、寝息が聞こえてびっくりした。」と言います。私は完全に眼を閉じて眠れなくなっていました。今日からテープを貼って寝ようと言うと、妻は笑っていましたが、実際に入院患者さんなどは、夜間の就寝時の眼球の保護と乾燥を防ぐためにテープを貼って閉眼をキープします。涙は眼球の保護の為に出てきますが、顔面神経の上部の圧迫があると、涙も出て来ない事がありますので、点眼薬によって眼球を保護してあげないといけません。
 この頃になると麻痺状態は、教科書のとうりになっていました。すると、テレビやパソコンなどは数秒で眼が疲れてきます。車の運転も大変です。私は1度運転をしてこりてしまいました。

 時間が経過して

 私が顔面神経麻痺になった事は、たちまち友人達にも知れ渡りました。電話口に出ると発音がおかしいので、まずは自分の病気の自己紹介をしなければ、友人は電話口で私が歯でも磨きながら話しているのではと思われてしまうからです。「あのね、自分はパピプペポが言えないんだよ!」と言っているつもりですが、実際には口から息がもれてしまうので、説明にも苦労します。
  段々と自分の病気について話すと疲れが出てくるのを自覚していきました。病気について様々な人が心配していただくのはとてもありがたい事ですが、その都度大変な負担がかかるものだと感じてきました。恐らくストレスというものに変わって行ったのだと思います。しかし、外から見るといつもの私です。元気はつらつの私が毎日他人には映っていたと思います。不思議と仕事をしていると、自分の事をすっかりわすれていました。自分の事を振り返る時間に、なにやら不安がたちこめて来たように思います。

 この顔をどう思うでしょうか

 当時、私は自宅に帰って娘とじゃれあうのが大好きでした。娘はまだオムツがやっと取れたばかりの頃です。娘のパンチが私の麻痺した左目にヒットしました。私の眼はまぶたを閉じる事ができませんので直撃です。痛い!と眼を覆いながら涙がどんどん出てきました。心配そうに妻が、パパは病気だから気をつけて!と娘に言っています。私は自分の不注意だからといいながら、パンチを受けた左目をハンカチをあてて覆うと、娘はしゅんとしてしまいました。
 当の本人は、顔以外の身体はいたっていつもの自分なのに、周りがあまりにも気を使い過ぎる事にも気がつきだしました。そうだろうな、この顔じゃ周りも気の毒にと思うだろうな。でも自分はいつもと変わらない自分なのにな…。人の目につく部位は、本人の意識より、他人の意識の方が強いものだと実感しました。
 しかし、娘や妻は意識はしていたものの、いたって普段どうりの態度であった事に感謝します。でも毎日食事の時に、美味しいか?と尋ねられても、私は今は味音痴なの!と言い返す。ラーメンやパスタや汁ものは、すする事ができないので上手に食べれない。そんな時に限って食事のメニューにはそのような物が多かった気がします。上手に食べれないとは、口から物が漏れてしまうということです。食事には時間もかかりました。娘が口をとがらせて、つるつると麺を口の中に吸い込む姿がうらやましかった事を覚えています。
 正直言って、この顔をどう思うか?家族には聞いていませんでした。きっと家族はそういう質問が出ないように、いたって普通どうり接してくれていたのかもしれません。私の性格も熟知している妻は、私が気を張っているうちは、大丈夫と思ったのかも知れません。例えば私は風邪で熱があっても割合平気です。しかし、一度体温計で熱を計ってしまうと途端に病人になってしまいます。なんとも気の弱い人なのです。
  自分がそう解っていても人間は同じ様な過ちをくり返してしまうものです、恐らく妻も一大事だと思ったに違いありませんが、今さらどうしようもないと思っていたのだと思います。


 もっと自分を分析してみると

 私を分析する事は、私の性格上非常に簡単な事でして、何ごとも包み隠さず書き上げたいと思います。
 発症当時の私の精神状態は、やはり顔面神経麻痺という問題に、非常にかき乱されていたという事実がありました。冒頭でも書きました様に、パニック状態の初期症状とでもいう感じだったと思います。この時期は麻痺が段々と日に日にひどくなる経過を待っているのが辛い状態でした。その為か、気になるとすぐに鏡を見てチエックを入れたりしていました。やっぱりひどくなっている。そう知っていて落胆しながら鏡を見ていました。私は麻痺の進行は雪崩れのようで、一度始まるとどこで止まるかは解らないものだと思いました。完全に私の顔が麻痺するまでに4日程かかりました。
  顔の麻痺が完全にできあがると現在自分の失われた能力を自覚してきます。それが食事の事であったり、生活や仕事の事であったりします。主は<顔面神経麻痺を考える>では注意として取り上げている内容です。食事では前記したとうり、麺類や汁物をすすることができず、味覚障害もありなんとも言えない状態です。
 気分転換がこの頃には必要かなと思いますが、こんな状態ではテレビや本も読みづらく、音楽を聞くくらいしか抵抗なくできるものはありませんでした。しかしその音楽でさえ聞く気になれない状況下にあったと思います。私も気分転換が下手な人間だったと自覚もしていました。下手なりに捜す努力はしていたみたいですが。
 自分の仕事中に顔面神経麻痺の患者さんから、「先生、ミイラ取りがミイラになったね。」と言われた時に何か思わず大笑いをしてしまいました。たぶんその時に、自分の中で全てが吹っ切れたように思います。もともと根は明るい性格の私です。自分がこんなところで鬱になっていてどうすると目が醒めました。そこでこの体験を生かそうと顔面神経麻痺について、自分の未だ知らない事を再度、臨床を通じで勉強し始めました。H7年の事ですからもう9年の歳月が流れています。しかし、私はまだまだ勉強を重ねています。それは、病名は同じであっても、疾患にかかった人は皆それぞれ違う人だからです。私は、「それじゃミイラがミイラを治します。」と言うと患者さんは是非お願いしますと笑って治療に臨みました。転んでもただでは起きない自分を育て上げてくれたのは、他でもない自分の患者さんだったのです。
 では一般の人だったらどうするか?同じ様な体験をした人の話を参考にしたいと思うのではないか?そこからどうすべきかを考えたいのではないか?と思いました。そんな事を追求しながらメモを作っては、心理というものを自分でも勉強しはじめました。これも私が病院に勤務していた時にお世話になった先生方の御指導の賜物と感謝しております。
 結果的には、私は顔面神経麻痺に対して、自然に向き合う事ができていたのではと思います。その向き合うために、周りの人に大変お世話になっていたという事は、随分時間が経ってから自覚して行きました。その間、病気になったショックと鬱になった自分を周りの人が温かく見守ってくれた御陰で脱却できたのだと思います。なんとも情けない治療家としての自分を反省する事しきりです。その分は、疾病にかかった人の心理を自らが体験した事は大きなものになりましたけど…。本当に自分では明るい性格だと思っていても、いざこの様になるとみごとに自分ではなくなってしまうものだと思いました。ましてや小心者であるという事まで考えてしまう私がそこにいたのにはびっくりです。しかし、この病気を学んでゆくうちに、どんなに強い精神力の持ち主でも、この様に考えてしまうものだと解って来たら、はずかしいものでもないという事に気がついてきました。その事を本人に伝える事でも、顔面神経麻痺に対して前向きになる第1歩がふめると思います。

 病気をやっつけに行く!

 私は「病気をやっつけに行く!」という言葉が大好きです。この言葉は私自身が言ったのではなく、ある小さなかわいい患者さんが言った言葉です。それを聞いていた隣のベットの患者さんが「よっしゃ!俺も行く!」と言った事で、私は「道案内は私が…。」と言ってなんだかみんなが妙に気合いの入った出来事がありました。その時の状況はともかく、小さくともたくましい声に皆は心を動かされました。
 私は病院でもなるだけ、治療中は患者さんのベットのそばで話をしていました。今でも勿論その姿勢は変わっていません。インターネットでもそのような姿勢のもとに、皆さんのサポーターになれたらと思い執筆を続けます。
 本当にびっくりしたのは、この記事を書いている最中にも、ご友人の御相談でメールが届きました。病気に悩む本人とそれを支える、理解しようとする人たちがいるとてもすばらしい事です。少しでも友人の病気を理解してあげたいと、私にメールを下さいました。その他にも御家族や知人の御相談もあり、本当にこの<顔面神経麻痺を考える>というページを理解していただいているものと存じます。



 この顔面神経麻痺について、お悩みや御相談がありましたら 、治療の窓の掲示板、顔面神経麻痺をやっつけに行く掲示板、メールなどから、お気軽にお問い合わせ下さい。院長がお返事いたします。

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 顔面神経麻痺に関係する執筆内容のページです。是非読んでみて下さい。
 こんた治療院 <治療の窓>より抜粋しました。
 毎日、診察の合間にコツコツと執筆しながら早24年が経ちました。皆さんに1つでもお役にたてる事がありましたら、幸いと思いながら、今も尚治療の合間に書き続けている内容です。全国の方から色々な御質問などいただき、毎日心を込めて返信しています。そうしたみなさんの力で、今日まで一生懸命やっていて良かったと思うのは、インターネットのすばらしさの1つだと考えています。

 シリーズ
 顔面神経麻痺を考える

6.1 後遺症各論
<病的共同運動の強調>

7 小児の顔面神経麻痺
:ケア編

8 顔面体操と
顔面の運動は、
やってはいけない

10 顔の痛み 三叉神経痛

21 随意運動と不随意運動

23 やっつけに行く
今回は、
鬼軍曹の
独り言ですか?


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